命日

2週間前の5月21日日曜日、一周忌と納骨を終えた。

 

結局、遺骨は1年間、自宅に置かれていた。1年の間に遺骨の一部と一緒に、今まで旅行した思い出の地を周って歩いたとか歩かなかったとか、あまりはっきりは聞かなかったが奥さんと息子と一緒に過ごしていたらしい。

 

今までは「去年の今頃は生きていた」と思っていたが、いよいよ今日は複雑な気持ちだ。一年前の今日夜遅く自宅で倒れ、電話連絡が来た。

 

夜遅く、関東まで行く移動の手段は無かったが、状況もよくわからずコロナ禍で行っても会えないのでは困ってしまうと続報をまった。翌朝実家に電話したが誰も出ない、奥さんの携帯に電話をすると夕べのうちに両親は駆け付けていたらしい。

 

面会も出来るので来ても大丈夫、というのですぐ新幹線に乗って向かった。”面会して良い”と言うのは、”状況は厳しい”という事を看護師のうちの奥さんは感じ取っていた。

 

午後1時頃病院に着いた。兄の奥さんが出迎えてくれた。

集中治療室のような部屋でベットに横たわり様々な線がつながれて人工呼吸器で呼吸をしていた。脈は打っている。

 

声をかけると人工呼吸器がエラーになる、多分何か答えようと声を出そうとして、人工呼吸器に抵抗が生じてエラーになっていたんだろうと、今はそう感じている。

 

その後、蘇生の処置もむなしく状況が悪化して亡くなってしまった。機械で呼吸しているだけで自発的な呼吸も心拍も無くなってしまい、処置を止めていいか聞かれる。

兄の奥さん一人だけでは判断に困ったろうが私も一緒にいたので決断も出来たようだ。声にならない嗚咽が出た。

CTで見た脳は中心が真っ黒だったらしく、重症度は奥さんも覚悟していたと後から聞いた。

 

明日の命日を前に実家の両親に電話をしてみた。お墓は実家のすぐ近くにあるので、親戚に送ってもらって墓参りに行くとのこと。

兄は高校の教師だった。高校では体育祭の最中だった。

兄の奥さんは命日に休みを取りたかったそうだが、体育祭で休めなかったという話を聞いて、昨年も体育祭の時期だったなぁと思い出した。

 

実家に電話をした時、母親が不思議なことがあると話し出した。

 

昨年、亡くなる前に兄が実家に一度帰ったらしい。

去年の5/30は月曜日なのだが、母の記憶では5/30だったらしい。

 

その時兄は「今年は庭のミカンが良く育ちそう」だとか、

「藤がきれいで写真を撮って来た」と写真を見せてくれたりしたそうだ。

 

その日は奥さんが奥さんの実家に行っているので、帰り駅まで迎えに行かなきゃないから帰る、と言って帰ったそうなのだが。

 

「疲れ切った表情で、背中を丸めて門を出ていく映像が頭に浮かぶのだが、冷静に考えると、実際そんなシーンは1回も無かった」という、なぜかその光景が頭に残っているそうだ。。そして翌週亡くなってしまったのだ。

初盆が終わって。

コロナウイルスの第7波の真っただ中、

 

兄貴の初盆が終わった。

 

コロナの新規感染者数は全国で連日20万人前後出ている。

 

「密にならないよう気を付けて、」

 

「ご焼香が終わったらさっさと解散しよう」

 

等と言っていたのに、結局同じ時間に親戚が集まってしまった。

 

初盆は、四十九日に出席した親戚のみでやろうという事になって、

 

訪問する人数を制限し、また、兄貴の家は8/13、8/14の2日間のみ来客を受け入れることにした。

 

兄貴はもう仏になったので、魂に対して話しかけることもできるが、どうもしっくりこない。

 

どたばたと初盆まで来たけれど、数えれば2か月ちょっとしか経ってない。

 

まだ3か月も経ってないのだ。

 

100日供養が「卒哭忌(そっこくき)」と呼ばれ、

 

100日までは声を上げて泣いていても良い、

 

それくらい身内の死は辛くて悲しい、

 

でも100日過ぎたら、泣くのをやめてこれからのことを考えて前に進みましょう、と言うのだから、

 

まだまだ悲しくて良いはずだ。

 

私は毎朝、祖父祖母や、ご先祖様。無くなった親類縁者、友人知人に感謝の気持ちを念じて祈っている。

 

なんか、兄貴はまだそこに混ざらない気がするのだ。

 

ニュージーランドの雪山のスキー写真がテレビで流れていた、そういえば兄貴も自然にあこがれてニュージーランド行ってなかったっけ?

 

何かをきっかけに兄貴のことを考える。でももういないのだと。

 

変な話だが

 

兄貴が無くなった後、スーパーフライのDVDを車で大音量でかけて運転していた、ボリュームMAXなんて出したことの無い大きさで聞いていた。カーステレオのボリュームの最大が34であるのを初めて知った。

 

でも、初盆が終わって、最近、そんなに大音量で聞かなくても満足できるようになった、こころの隙間が埋まってきたんだろうか?

 

初盆の日兄の遺品をいくつかもらってきた、ギターや、子供たちは本やかばんをもらってきた。そんなことも気持ちが落ち着いてきた理由かもしれない。

 

兄の骨はまだ兄の家にある。納骨は先延ばしにしたので、これからどうするのか、落ち着いて手を合わせるにはまだ少し時間がかかりそうだ。

何も感じないのは何か不思議だった。

先日の日曜日は四十九日の法要だったが、実際にはまだ六七日で本当の四十九日は次の土曜日である。なのでまだ仏にはなっていない。

 

兄とはあまり会話したり、連絡をまめにとる間ではなかったが仲は良かったしお互いを大切にしていた。

 

兄とは奇妙なことが何回かあった。

その一つは私が独身の頃だったが祖母が亡くなる何日か前に不思議な夢を見て、夢の中のホテルの一室で誰かと話をしていると、話をしていた相手の視線が天井の方を見たので、自分もふと上を見ると「何か黒いものがあるな」と思った瞬間に背中に”ドスッ!”と重いものが乗っかってきて身動きが取れなくなり、一瞬目が覚めて「う~」と言ったまま再度寝込んでしまい、翌朝に何事も無かったように目が覚めた。その話をした時に「あぁ、俺もあったそうゆうの」って兄が話していた。

 

その他は、細かい話だけれど「この前、疲れすぎて寝てるとき呼吸を忘れる所だった」とか、聴力をチェックするためにモスキート音のテストをしようと思ったら、いつも耳鳴りがなっているので聞こえなかった、とか。

兄とは何かとシンクロすることがあったので、今回の件では何か感じる事があるじゃないかと思っていた。なのに、そうゆう気配が全くないので不思議に思っていた。なんでだろう。

こんなことになってしまったら、何かを感じるんじゃないかと思っていたのに、そんな雰囲気を微塵も感じないのだ。

もしかして、まだ仏になっていないからだろうか?いや、そんなことは関係ないと思うけれど、その感じないことを何か不思議に感じるんだ。

七七日(四十九日法要)

今日は四十九日法要だった。
新型コロナウイルスの感染者が急増して第7波に入ったと言われているが予定通り行われた。

私は法事の為に新幹線と在来線で3時間半かけて兄の家のある町に出かける。

今回は前日から移動して兄の嫁(義姉)と兄の一人息子に会いに行った。

兄は今年度で定年となり、来年度から両親の面倒を見るつもりだった、両親は2人暮らしだが二人とも足腰が弱っているので老夫婦二人だけで暮らすにはもう限界を超えていると思っていた。普段あまり会話のない兄弟だったが2ヶ月ほど前に、こちらから改めて話を切り出し「今後、両親をどうするのか」問いかけた時に”定年になったら両親の面倒を見ようと思う”と言う兄の考えを聞いていたのだったが、それもかなわなくなったので、相談したかった為だ。

兄の家に着いた、コロナも流行っているので夕食は食べずに話だけして早々にホテルに帰るつもりだとLINEでメッセージを入れておいたが、見てなかったのか夕食を用意してくれていた、せっかくなので「黙食で頂きます」と言って、兄の席にすわって夕食を頂いた。コロナが無ければ色々話しながら食事もできるが黙食はなんとも気まずい空気が漂く、いつか慣れるのかな?

自分では兄とは似てないと思うが、同じ遺伝を持つ弟のオレが兄の席に座って食べたら少しは兄の面影を感じるだろうか、などと思って食べていた。

翌日、ホテルに迎えに来てもらって会場へ向かった。法要は30分くらいのお経ですぐ済んだ。葬儀の時は皆に内緒にしていたが、自分の礼服は兄のおさがりであることを皆に明かして、裏地に兄のイニシャルが刺繍されているのを見せた。法要後、会食があり親戚で兄の思い出などを話したが、やはりコロナのせいでワイワイと話すわけにもいかず静かな食事となった。

式場を出て、一同兄の家にちょっと寄ってもらい形見分けなどをした、大量にある本などを見て、叔父、叔母が思い出の品にと思い思いの物をもらって行った、淡々と法要は終わった。

五七日(いつなのか)

兄の誕生日がやはり一番つらかった、それまでに想いを吐き出したくて日記を書いたけど、書いたら少し心が落ち着いたのか、今日までブログを書かずに過ごしてこれた。

 

でもふとした時に感情が高ぶって泣いてしまう事があるよ、毎朝起きれば「今日も目が覚めた」と思う。洗面台の前に立って急に悲しくなることもあったし。

 

でも普段は全然普通に過ごしている、職場でも子供の前でもいつも通りだ。近親者を亡くした人はみな同じだと思うけれど、こうしてブログで本音を明かさなければ、一人になった時にどうしているかなんて知る由もないよね。

 

今日は五七日、仏教ではあのゆうめいな閻魔様と会う日だ。生前の悪事を水晶玉に映し出し、うそをつくと鬼に舌を抜かれる。閻魔様は故人の生まれ変わり先を決定するそうだ。

 

七七日(四十九日)に故人の進路が最終決定されることを考えると、五七日は受験で言うと共通テストだろうか?大変だな兄貴。でも兄貴ならきっとうまくやるだろう、祈っているよ。

誕生日

今日は一番悲しい日だ。

このブログを書き始める決心をした理由のひとつは、6/24が来る前に書き始めたかった。もしかしたら今日書いたら後は書く気がしないかもしれない。

何も無ければ兄貴は60歳になる日だった。

 

一週間前は自分の誕生日でこんな悲しい誕生日はないと思っていた。

兄貴とは5歳離れていて、月日だけで言うと俺のほうが一週間早い。

 

兄貴が5歳になった時に両親が兄貴に「兄弟が欲しい?」と聞いたらしい。そして「欲しい!」と兄貴が答えたから俺が生まれた。

 

いつも親しい人が亡くなると感じるのは、年の差が縮まって行くことだ、やがてその人の面影より長く生きることになり改めて感謝の想いがこみ上げてくるが。

 

今回はわずか2週間ほど年の差が縮まっただけで、もう兄貴の歳に自分が近づき始めているんだと感じた。

もう兄貴のFacebookも更新されない。

軽く胸を締め付ける状態が続く。

 

 

三途の川

 仏教では亡くなった人は仏になるまで7日ごとに”冥土の王朝の王さまたち”に会い、さばきを受けるのだそうで、いわば7日x7強化合宿の様だと思った。

 

 最初の7日間は険しい山を越えていくらしい。この時に魂はお香を食べて進むので現世でお香を絶やさないようにするとのこと。

(出典:大の葬祭「初七日」から「四十九日」まで。葬儀後の法要(法事)について)

 

 兄の葬儀は亡くなった1週間後だったので初七日の法要も執り行った。

 

 険しい山を越えるとすぐに三途の川があるそうだ、これが二七日(ふたなのか)。この前の日曜日がちょうど二七日だったので、兄も三途の川を渡ったと思うが、この時の川の渡し賃が六文(ろくもん)かかるので棺桶に六文に見立てた紙に書いた銭を入れた。

 

 しかし本当にいまだに渡し賃は六文なのだろうか?疑問が残る。時代がかわってもし値上げされていたら渡る前にバイトをする羽目になっていないだろうか、真面目に心配してしまう。

 

 兄は両親想いで良く新しいスマホを買って設定してあげたり、お古のiPadやデジカメなどを父にあげたりしていた。もしかしたら、両親が来るまで賽の河原で待っているかもしれないなどと考えては自分一人の心の中にしまっておいた。